ここでは、前に述べた二輪車産業の歴史を踏まえた上で、二輪車産業構造の変遷を追っていきます。二輪車産業の構造を分析するにあたっては、指標として生産企業数、生産集中度及び集中順位を用いて考えたいと思います。
1.生産企業数
終戦直後は数社だった二輪車メーカーは、1950年代前半には急速に増加します。戦後の二輪車生産企業数の推移を図−2に示します。
統計上、二輪車の生産が戦後初めて記録されるのは1946年度の第一四半期であり、宮田製作所*1が生産を開始しています。戦時中に唯一、軍需用オートバイの生産を続けていた陸王*2は1947年度第一四半期に生産を再開しました。また、それまでに二輪車生産をおこなっていなかった企業(三菱重工業と富士重工業。詳細は後述)もスクーター生産に乗り出してきています。財閥系のこれらの企業は、戦時中は軍需品(航空機等)の生産をおこなっていましたが、終戦により軍需関係の生産品がなくなってしまいました。しかし、従業員の生活を守り、企業自身が存続していくためには何らかの製品の生産をおこなわねばならず、そこで、航空機関係の技術者を多数抱えていた二社は、エンジン製造技術と材料加工技術を生かし、スクーター生産に乗り出したのです*3。ホンダもこの時期に二輪車産業へ参入しています*4。ホンダは当初、二輪車産業への参入を目的として設立された訳ではありませんが、結果的に二輪車生産で成功を収めることになりました。
1950年代に入ると、二輪車産業へ参入する企業が急速に増加します。図−2ではピーク時の1953年に80数社となっていますが、実際には200社以上のメーカーが存在していたとも言われています*5。スズキが二輪車産業に参入したのはこの時期です*6。GHQによるドッジ・ラインの実施をきっかけにして、当時、スズキの経営は深刻な状況にあり、それを打開するために二輪車産業参入の決定がなされました。
カワサキも、競争が激しくなっていた1953年にスクーターを開発し、二輪車産業に参入しています*7。カワサキは前述の富士・三菱重工業と同様に航空機関係の豊富なエンジン技術者を多く抱えており、それを生かした形での参入です。
ヤマハが二輪車産業へ参入したのは1955年であり、競争が一番激しい時期でした*8。ヤマハの工場には戦時中に軍用プロペラ製造等に使用されていた工作機械がそのまま残っており、それらの機械を有効に利用するために、いくつかの選択肢の中から二輪車産業への参入の道が選ばれました。
競争が激しかった1950年代、二輪車メーカーの知名度アップにはレース参戦が利用されました*9。レースでの成績は販売成績と密接に結びついており、レースに参加できないメーカーは生き残ることができなかったとも言えます*10。レースで優秀な結果を残したメーカーにとっては、大きな宣伝効果となり、販売面で有利になりました*11。しかし、レースをするためには機械(主としてエンジン)についての十分な知識と開発のための資金力が要求されるため、この時点で零細メーカーは不利な状況におかれました。そして国内外のレースに数多く参加することによって、日本製二輪車の性能は飛躍的に向上をすることになります。
1950年代後半から1960年代前半にかけては、多くの企業が二輪車生産から退出していきました。直接の原因は販売不振です*12が、退出にはいくつかのパターンがあるように思えます。以下に、当時、ある程度の生産をおこなっていた企業が二輪車生産から退出するときのパターンを示します*13。
@ 他企業への吸収合併*14
陸王内燃機(株)(陸王モーターサークル(株))、(株)目黒製作所*15、新明和興業(株)*16、北川自動車工業(株)*17、(株)昌和製作所*18、(株)板垣。
A 本業へ集中
(株)宮田製作所、ブリヂストンタイヤ(株)(ブリヂストンサイクル工業(株))、新三菱重工業(株)(中日本重工業(株))、富士重工業(株)(冨士工業(株))、スミタ発動機(株)、東京発動機(株)。
B 廃業
丸正自動車製造(株)、(株)トヨモーター、東昌自動車工業(株)、(株)丸山製作所、(有)みづほ自動車工業、エーブモーター(株)(エーブ自動車工業(株))、富士機械(株)、ミシマ軽発工業(株)、小倉製作*19、三光工業(株)、(株)平野製作所、日米富士自転車、伊藤機関工業(株)、三協機械製作所、(株)ロケット商会、ミナト製作所(株)、(株)センター製作所、ツバサ工業(株)、(株)山口自転車工場、ヘルス自動車工業(株)、(株)マーチン製作所。
二輪車生産企業数に関して、とくに参入と退出に注目し、表したのが図−3です。
1953年に参入のピークがあり、1955年に退出のピークがあります。退出の超過は1965年頃まで続き、それ以降はあまり変化がありません。
レース等によって向上した技術力は、結果として、参入障壁*20を高くすることにつながったと思われます。1950年代後半以降に二輪車産業に参入し、一時的に、ある程度の成功を収めた企業としてはブリヂストンがあげられます*21。しかし、ブリヂストンも1971年には二輪車生産から撤退しました。
二輪車は部品点数が比較的に少なく、各部品を購入し組み立てれば、すぐにでも二輪車メーカーになることができました。そういったメーカーは、参入当初は利益をあげることができますが、参入障壁の低さは競争を導くために、独自性を打ち出しにくい単なるアッセンブリーメーカー(組立メーカー)及び技術開発を軽視し、短期的な利潤追求を追い求めたメーカーは競争に敗れていきました。こうして二輪車メーカーの数は急速に減少したのです。メーカー数が数社になり、寡占となった後も二輪車産業に参入した日本の企業はありましたが、散発的なものであり、市場で一定のシェアを得るには至りませんでした。
このような二輪車産業の急速な発展とそれに伴う新規参入業者の増加、及びその後の寡占化はアメリカ自動車産業の推移*22に良く似ています。日本の二輪車産業はホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの四社に寡占化し、世界一になります。それは、前述のように一時期、数百社*23といわれるメーカーが参入し、競争をした結果、技術力が急速に向上したからです。競争に勝ち、生き残った企業は生産技術や品質管理に対する何らかのノウハウを持っていることが多かったようです。ヤマハ、スズキ、カワサキの3メーカーは他業種からの参入であり、ホンダも元を辿ればエンジン部品の生産をしており、生産技術や品質管理に関して、まったくのゼロから始まった訳ではありません*24。また、成功したのはすべて戦後に二輪車を手がけたメーカーです。戦前からの二輪車メーカーは戦後の競争に全く生き残れませんでした。これは、戦前からのメーカーは古い技術にこだわりすぎて技術革新を怠ったからだとする見方もあります*25。
2.生産集中度
二輪車産業構造を明らかにするために、前述の生産企業数の推移に加えて、二輪車産業の集中がどのように変化してきたかについての分析をおこなってみたいと思います。
集中には大きく分けて二つの種類があります。広く経済全般をみようとする「一般集中」と特定分野を対象として集中を考えるときの「産業集中」です。一般集中は経済全体に占める企業の集中の度合いを示します。産業集中は「市場集中」とも呼ばれ、特定産業についての集中度合いを示すものであす。ここでは二輪車という特定の産業を対象とするため、産業集中を扱います。また、産業集中の中でも、とくに生産面からの「生産集中度」について検討します。
2.1 集中指標
集中度を具体的に測定するにはいくつかの方法があり、それぞれに一長一短があります。ここでは以下のの二つの測定法を用います。
@ 累積集中度
広く集中度の測定に用いられる測定法であり、ある産業の上位数社が産業内に占める比率で表されます。上位n社の累積集中度CRnは以下の数式で示されます。
注:Siは集中度上位i番目企業の集中度。
上位数社をいくつとするかは各国によって異なります。アメリカでは上位4社、8社、20社及び50社、日本では上位3社、4社、5社、8社、10社での計算がおこなわれる場合が多いようです*26。累積集中度は、簡便で解釈が容易な測定方法ですが、産業の総企業数が考慮されないこと、及び相対的な集中度格差が表されにくいという欠点があります。
A ハーフィンダール指数(以下、H.I.)
1950年にハーフィンダール(Orris Clemens Herfindahl)によって集中度の測定に用いられた方法です*27。ハーフィンダール以前にもハーシュマン(Albert O.Hirschman)が外国貿易に関する研究に同様の測定法の概念を用いていたため、ハーフィンダール=ハーシュマン指数とも呼ばれます。
H.I.は各企業の集中度を二乗したものの総和で表され、以下の数式で示されます*28。
注:mは産業内の全企業数。Siはi番目の企業の集中度。
H.I.は、累積集中度では表せない企業間の集中度格差と企業数の両方を単一指標として示せるという利点があり、累積集中度とともに各国の統計で採用されています*29。
ここにおいてH.I.は日本の公正取引委員会の表記に従い、上記式により計算された値に10,000を掛け、次のように類型化をおこなっています*30。
@ H.I. 3,000超
・・・・・・・・・・・・・・高位寡占型(T)
A H.I. 1,800超〜3,000以下・・・・・高位寡占型(U)
B H.I. 1,400超〜1,800以下・・・・・低位寡占型(T)
C H.I. 1,000超〜1,400以下・・・・・低位寡占型(U)
D H.I. 500超〜1,000以下・・・・・競 争 型(T)
E H.I. 500以下 ・・・・・・・・・・・・・競 争 型(U)
2.2 累積集中度
戦後の二輪車産業における累積集中度の変化を表したのが図−4です。累積集中度は、上位三社で表しています*31。
終戦直後に上位三社累積集中度(以下CR3)はほぼ100%です。この時期のCR3が高いのは、“二輪車”と呼べる製品を作っていたメーカーが戦前に二輪車生産をおこなっていた企業のみだったからです。(統計の信頼性も今と比べれば劣っています。)ただし、終戦直後は生産台数が少なく産業と呼べる段階ではありませんでした*32。
復興が進むにつれ、徐々に新規参入者が増え、CR3は1950年代半ばにかけて急速に低下し、約40%となります。その後の激しい競争により淘汰がおこなわれ、CR3は再び上昇していきます。1965年以降、CR3はほぼ90%で安定しています。
排気量別にCR3をみると、小型二輪車の方が高く、1960年代半ばから1990年頃までは少しずつ高くなっています。中・大型二輪車については小型二輪車とは逆に、1960年代半ばを最高に、僅かずつですが低下する傾向にあります*33。
現存している四社(ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ)に注目して集中度の推移を示すと図−5のようになります。
ホンダは二輪車生産開始以降、急速に集中度を高め、1960年代半ばには60%を超えるまでになりました。その後、集中度は下がり1970年代後半からは40%から45%の間で推移しています。生産開始がホンダに遅れたヤマハは、徐々に集中度を高め、1970年代後半には30%を超えました。その後、1980年代後半から1990年代半ばにかけて集中度は下がる傾向にありましたが、1990年代後半には再び集中度が30%に近づいています。スズキの集中度も参入後、徐々に上昇し、1980年頃には20%を超えました。その後、変動はあったものの1990年代半ばからは20%前後で安定しています。カワサキの集中度は1960年代半ばまでは数%に過ぎませんでしたが、徐々に増加し、1975年には約8%になります。その後は数%の変動はあったものの集中度が10%を超えたことはありません。1990年代中頃からは、少しずつですが集中度は高くなってきています。
上記四社の集中度を累積して表したものが図−6です。
ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの四社による累積集中度は1950年頃から一貫して上昇し、1970年頃にはほぼ100%に達しました。この図−6は二輪車産業が四社による高度寡占の状態に達するまでの過程をよく示すものです。
2.3 H.I.
二輪車産業の構造を生産集中の側面から分析するために、企業間の集中度格差をも考慮したH.I.を用いて表すと図−7のようになります。
二輪車産業は終戦直後、H.I.が7,000を越える高度寡占型(T)であった。これは戦前に設立されたメーカーが、既に持っていた技術力のため、比較的早期に生産を再開できたからです*34。1950年にはH.I.が3,000を切り、高度寡占型(U)となります。翌1951年にH.I.は1,600程になり、低位寡占型(T)へ移りました。1952年には低位寡占型(U)、さらに1953年から1957年までは1,000以下へとH.I.は急速に低下し、産業組織は競争型(U)へと変化しました。これは後に述べる政策とも関係してきますが、大きな潜在的需要を反映した先行者の成功が数多くの企業の参入を導いたからだと思われます。参入障壁が比較的低かったことも影響しているのでしょう。1957年にはそれまで低下し続けていたH.I.は上昇に転じ、翌1958年には再び1,000を超え低位寡占型(U)となります。さらにH.I.は上昇を続け、1959年には低位寡占型(T)、翌1960年には高度寡占型(U)となりました。1950年代の激しい競争の結果として弱小企業は淘汰され、1962年にはH.I.が再び3,000を越え、二輪車産業の組織は高度寡占型(T)へと戻ります。さらにH.I.は上昇を続け、1965年には5,000に近づきますが、その後は低下し、1970年代半ばからは3,000を少し超えるところで安定し、現在に至っています。
なお、小型二輪車のH.I.が相対的に高いのは、上位三社(ホンダ、ヤマハ、スズキ)で生産の95%を占めているからです*35。中・大型二輪車のH.I.が相対的に低いのは、カワサキが大型二輪車で強く*36、四社がほぼ拮抗しているためです。
図−6と図−7により、現在の日本における二輪車産業が高度寡占状態にあるのは明らかです*37。寡占している四社は技術面、生産面、販売面のいずれにおいても確固たる地位を保っています。製品の差別化*38も進んでおり、一見すると新規参入は困難にも見えます。しかし、二輪車メーカーがアッセンブリーメーカーとしての傾向が強いこと、及び部品点数が四輪車に比べて少ないことについては現在も変わりません。すなわち、四輪車と比べての参入障壁はかなり低いと考えられます。現在の二輪車産業は競争的共存状態*39にあるといえますが、この状態が変化し、四社間に何らかの協調が生まれた場合には超過利潤をもって新規参入者を惹きつけることになるかもしれません*40。
3.集中順位
二輪車産業構造に影響を与えている企業の集中順位は前述の集中度では表すことができません。以下の表−6では二輪車生産企業の集中順位の変遷を示します。1946年を除き1950年代前半まではスクーター生産を主とする企業が上位を占めていました。1956年以降はホンダが1位を維持しています。スクーター生産企業の順位が低下してきた1960年前後からは自転車製造を本業とする企業が上位に現れてきました。激しい競争が終わり、寡占化が進んだ1960年代半ばからは、ほぼ同じ順位のまま現在に至っています。
表−6 二輪車生産企業の集中順位(上位五社:二輪車全体)*41
年 |
1位 |
2位 |
3位 |
4位 |
5位 |
備 考 |
1946 |
陸王 |
宮田 |
新三菱重工 |
富士重工 |
― |
|
1947 |
富士重工 |
新三菱重工 |
陸王 |
宮田 |
丸山 |
|
1948 |
富士重工 |
新三菱重工 |
陸王 |
目黒 |
丸山 |
|
1949 |
富士重工 |
新三菱重工 |
目黒 |
丸山 |
陸王 |
|
1950 |
富士重工 |
新三菱重工 |
昌和 |
宮田 |
エーブ |
|
1951 |
富士重工 |
新三菱重工 |
ホンダ |
エーブ |
昌和 |
|
1952 |
新三菱重工 |
富士重工 |
ホンダ |
北川 |
スミタ |
|
1953 |
ホンダ |
新三菱重工 |
富士重工 |
東京発動機 |
丸正 |
|
1954 |
ホンダ |
東京発動機 |
新三菱重工 |
富士重工 |
みづほ |
|
1955 |
東京発動機 |
ホンダ |
新三菱重工 |
富士重工 |
トヨモーター |
スズキ: 8位 |
1956 |
ホンダ |
東京発動機 |
新三菱重工 |
富士重工 |
スズキ |
ヤマハ :12位 |
1957 |
ホンダ |
新三菱重工 |
東京発動機 |
富士重工 |
スズキ |
ヤマハ : 8位 |
1958 |
ホンダ |
スズキ |
新三菱重工 |
富士重工 |
東京発動機 |
ヤマハ : 6位 |
1959 |
ホンダ |
スズキ |
山口自転車 |
ヤマハ |
富士重工 |
カワサキ:14位 |
1960 |
ホンダ |
スズキ |
山口自転車 |
ヤマハ |
宮田 |
|
1961 |
ホンダ |
スズキ |
山口自転車 |
ヤマハ |
ブリヂストン |
カワサキ:11位 |
1962 |
ホンダ |
スズキ |
ヤマハ |
山口自転車 |
ブリヂストン |
カワサキ: 8位 |
1963 |
ホンダ |
スズキ |
ヤマハ |
ブリヂストン |
東京発動機 |
カワサキ: 7位 |
1964 |
ホンダ |
スズキ |
ヤマハ |
ブリヂストン |
富士重工 |
カワサキ: 6位 |
1965 |
ホンダ |
スズキ |
ヤマハ |
ブリヂストン |
カワサキ |
|
1967 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
ブリヂストン |
|
1968〜1997 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
― |
資料:前出『自動車統計年報』より作成
排気量別に統計がとられ始めた1958年以降について、小型二輪車生産企業の集中順位を表−7、中・大型二輪車生産企業の集中順位を表−8に示します。
表−7 小型二輪車生産企業の集中順位(上位五社)
年 |
1位 |
2位 |
3位 |
4位 |
5位 |
備 考 |
1958 |
ホンダ |
スズキ |
東京発動機 |
新三菱重工 |
富士重工 |
ヤマハ : 6位 |
1959 |
ホンダ |
スズキ |
山口自転車 |
東京発動機 |
富士重工 |
ヤマハ : 6位 |
1960 |
ホンダ |
スズキ |
山口自転車 |
ヤマハ |
宮田 |
|
1961 |
ホンダ |
スズキ |
山口自転車 |
ヤマハ |
ブリヂストン |
カワサキ:11位 |
1962 |
ホンダ |
スズキ |
ヤマハ |
山口自転車 |
ブリヂストン |
カワサキ: 8位 |
1963 |
ホンダ |
スズキ |
ヤマハ |
ブリヂストン |
東京発動機 |
カワサキ: 6位 |
1964 |
ホンダ |
スズキ |
ヤマハ |
ブリヂストン |
富士重工 |
カワサキ: 6位 |
1965 |
ホンダ |
スズキ |
ヤマハ |
ブリヂストン |
カワサキ |
|
1966 |
ホンダ |
スズキ |
ヤマハ |
ブリヂストン |
カワサキ |
|
1967 |
ホンダ |
スズキ |
ヤマハ |
カワサキ |
ブリヂストン |
|
1968〜1997 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
― |
資料:前出『自動車統計年報』より作成
小型二輪車生産についての集中順位は二輪車産業全体の集中順位と大きく変わりません。これは後で詳細に示しますが、生産台数においては小型二輪車が中・大型二輪車を大きく上回っているからです。
表−8 中・大型二輪車生産企業の集中順位(上位五社)
年 |
1位 |
2位 |
3位 |
4位 |
5位 |
備 考 |
1958 |
ホンダ |
新三菱重工 |
富士重工 |
ヤマハ |
目黒 |
スズキ: 8位 |
1959 |
ホンダ |
ヤマハ |
新三菱重工 |
富士重工 |
目黒 |
スズキ: 9位 |
1960 |
ホンダ |
ヤマハ |
新三菱重工 |
富士重工 |
東京発動機 |
スズキ: 6位 |
1961 |
ホンダ |
ヤマハ |
富士重工 |
目黒 |
新三菱重工 |
スズキ: 6位 |
1962 |
ホンダ |
ヤマハ |
富士重工 |
目黒 |
新三菱重工 |
スズキ: 6位 |
1963 |
ホンダ |
ヤマハ |
富士重工 |
目黒 |
スズキ |
|
1964 |
ホンダ |
ヤマハ |
富士重工 |
スズキ |
新三菱重工 |
|
1965 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
富士重工 |
カワサキ |
|
1966 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
富士重工 |
|
1967 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
富士重工 |
|
1968〜1970 |
ホンダ |
ヤマハ |
カワサキ |
スズキ |
― |
|
1971 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
― |
|
1973 |
ホンダ |
ヤマハ |
カワサキ |
スズキ |
― |
|
1974 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
― |
|
1975 |
ホンダ |
カワサキ |
ヤマハ |
スズキ |
― |
|
1976 |
ホンダ |
ヤマハ |
カワサキ |
スズキ |
― |
|
1978〜1980 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
― |
|
1981 |
ホンダ |
ヤマハ |
カワサキ |
スズキ |
― |
|
1982〜1984 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
― |
|
1985 |
ホンダ |
ヤマハ |
カワサキ |
スズキ |
― |
|
1986 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
― |
|
1987 |
ホンダ |
ヤマハ |
カワサキ |
スズキ |
― |
|
1989 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
― |
|
1991 |
ホンダ |
ヤマハ |
カワサキ |
スズキ |
― |
|
1992 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
― |
|
1993〜1995 |
ホンダ |
ヤマハ |
カワサキ |
スズキ |
― |
|
1996 |
ホンダ |
ヤマハ |
スズキ |
カワサキ |
― |
資料:前出『自動車統計年報』より作成
1958年以降の中・大型二輪車生産の集中順位は1975年を除き、1位がホンダ、2位がヤマハの状態が続いている。3位、4位の順位はスズキとカワサキの間で頻繁に変動しています。相対的に、カワサキが大型二輪車に強い*42ことを考えると、中型二輪車ではスズキの方がカワサキより強いと思われます。
*1 現在の宮田工業株式会社。戦前にも二輪車を生産していました。戦後の生産再開後は台数を急速に伸ばし、1961年には約6万7千台(シェアで3.7%)を生産していましたが1962年に二輪車生産から撤退し、以後は自転車生産に専念しています。
*2 戦前にはハーレーダビッドソン社のライセンス供与を受け、大排気量車の生産をおこなっています。1960年に全業務を昭和飛行機陸王工場へ引き継ぎました。
*3 スクーター以外にも、終戦時に残っていた材料(アルミ等)を利用して、鍋、釜、弁当箱等を作っていました。
*4 ホンダは1946年の10月に本田技術研究所として設立され、1948年に本田技研工業株式会社となりました。1947年に自転車用補助エンジン生産を始めていますが、車体まで自社製作した本格的な二輪車(「ドリームD型」:2ストローク単気筒、100cc)を生産開始したのは1949年です。なお、ホンダの二輪車生産が統計上で初めて現れるのは1950年7月です。『自動車工業資料月報』No.10、自動車工業会、1950年。
*5 生産企業数は、実際にはもっと多いと思われます。従って、図-2は必ずしも正確とは言えませんが企業数推移の傾向をみるのには十分だと思われます。
*6 スズキも1952年に、ホンダと同様に自転車用補助エンジンの製作を始めています。車体まで含めた完成車の生産開始は1954年(「コレダ号CO型」:4ストローク単気筒、90cc)です。なお、スズキは1937年には二輪車用エンジンの試作に成功していました(当時の社名は「鈴木式織機株式会社」)。しかし、この二輪車用エンジンは、四輪車用エンジン製造の前段階として技術的蓄積をおこなうためのものであり、製品として量産されることはありませんでした。
*7 当時のカワサキは、戦後の財閥解体のためにいくつかに分社しており、二輪車の生産をおこなったのは川崎機械工業でした。
*8 二輪車産業において、後発のヤマハが競争に勝ち残ったのは、楽器製造及び戦前の軍需品の製造で培った製造・生産技術が大きく役にたったからだと思われます。また、二輪車市場に対する事前の十分な調査がおこなわれていたことも生き残れた理由の一つだったのではないでしょうか。
*9 当時は富士登山レースや浅間高原レース(浅間火山レース)等がおこなわれました。国内の競争を勝ち抜いて力を付けたメーカーは1950年代半ばから海外のレース(サンパウロ国際オートレース、マン島T.T.レースや世界GPロードレース等)に参戦を始め、1960年代前半には好成績をあげるようになっていました。
なお、1936年1月におこなわれた第43回二輪車部会(二輪車・三輪車・軽自動車の業界団体である日本小型自動車工業会の分科会)において「レース結果を宣伝に使うのは自粛すべきだ」との結論が出されています。(前述『小型情報』34号より。)
*10 カワサキはこの時期、レース参戦をおこなっていません。本格的にレースに参戦するのはもう少し後になってからのことです。
*11 現在ではレース参戦が販売に与える影響は比較的に少ないと思われます。
*12 販売不振を招くことになった要因としては、
@ 生産設備の更新が遅れ、技術革新についていけなかったこと、
A 販売網の構築が遅れたこと、
B 経営戦略の失敗、
等が挙げられます。
*13 各年の日本国内における生産集中度が1%を超えた企業のみ。
*14 吸収合併はされないものの、他企業傘下に入る場合も含みます。
*15 1960年に川崎航空機工業と業務提携を結びますが、1963年に吸収されました。
*16 販売不振による赤字のため日立傘下に入りましたが1958年に二輪車生産から撤退しています。
*17 1959年にヤマハグループに入りました。(現ヤマハ早出工場)
*18 現在の創輝(株)。1960年にヤマハグループに入りました。
*19 スクーターを生産していたメーカーであるが正式名称等の詳細は不明。
*20 企業がある産業に参入しようとする場合に障害となるものです。参入障壁は@絶対的費用優位、A規模の経済、B資本調達及びC製品差別化の4つに分類されます。二輪車産業の参入障壁については、後に言及します。
*21 ブリヂストンもホンダやスズキと同様に補助エンジンの製作をおこなっていました。1952年に始まった自転車補助エンジンの生産ですが、二輪車の普及につれて生産が減少してきました。そこで、1959年から本格的に二輪車生産を開始し、一時はシェアで4.6%を占めました。しかし、故障の多発によるイメージダウンと参入の立ち後れが尾を引き、低迷するようになりました。1971年には二輪車生産から完全に撤退します。ご存じのように、現在、ブリヂストンはタイヤ生産メーカーとして二輪車産業と関わっています。
*22 R.E.Caves,op.cit.,pp.34-35.を参照。アメリカの二輪車産業も同様の経過を辿り、現在の量産メーカーはハーレーダビッドソン社のみとなっています。
*23 前掲『日本のオートバイの歴史』76ページ。
*24 本田宗一郎はホンダ創業以前(戦前)にピストンリングを製造する東海精機を設立していました。ヤマハは日本楽器製造株式会社からの分離独立。スズキは元々は織機メーカーです。カワサキは現在でも航空機、船舶や鉄道車両等の製造をおこなっています。ホンダは二輪車から四輪車へ進出していきました。これらの詳細は『社史』日本楽器製造株式会社、1977年、鈴木自動車工業株式会社経営企画部広報課編『70年史』鈴木自動車工業株式会社、1990年、川崎重工業株式会社百年史編纂委員会『夢を形に 川崎重工業株式会社百年史』川崎重工業株式会社、1997年及び前掲『HONDA 50 Years ホンダ50年史 ヤエスメディアムック』を参照して下さい。
*25 前掲『日本のオートバイの歴史』146ページ。
*26 このため、各国間でデータの比較をおこなうことには困難が伴います。各国の測定方法の違いや比較をおこなったものとしては、OECD編・植草益監訳『産業集中の国際比較』日本経済新聞社、1980年。(OECD,Concentration and Competition Policy,Report of the Committee of Experts on Restrictive Business Practice,1979.)に詳しく述べられています。
*27 Orris C.Herfindahl,Concentration in the U.S. Steel Industry.Unpublished doctoral dissertation,Columbia University,1950.
*28 一社独占によるH.I.は1です。二社による寡占の場合、50%ずつの集中度であればH.I.は0.5となり、90%と10%の集中度であれば0.82となります。
*29 アメリカ司法省反トラスト局及び日本の公正取引委員会も公式の集中測定指標としてH.I.を採用しています。なお、日本の公正取引委員会がH.I.を採用したのは昭和48年版の『公正取引委員会年次報告(独占白書)』からです。
*30 妹尾明編『現代日本の産業集中』日本経済新聞社、1983年、13-15ページ及び73-89ページを参照。
*31 上位四社では1960年代後半から累積集中度が100%になり、二輪車産業内の集中度変化を表すために適切ではありません。なお、累積集中度及びH.I.を計算する元となるメーカー別生産台数のデータは資料を参照して下さい。
*32 大量生産技術は確立されていませんでした。
*33 中・大型二輪車は生産台数が小型二輪車に比べて少なく、趣味として楽しむもの、という性格が強くなっています。よって一つの人気機種が登場することにより集中度は変化しやすくなります。
*34 終戦の混乱により正確な統計がとられていなかったことも影響していると思われます。
*35 第一種原付に限れば上位三社で、生産の99%を占めています。
*36 カワサキはその比較的早期に中・大型二輪車の生産を始めていました。
*37 二輪車は独占禁止法に基づいて公正取引委員会が公表する「独占的状態及び価格の同調的引上げの規定に関する監視対象事業分野」に含まれています。
*38 製品差別化についは後で述べたいと思います。
*39 それぞれが利己的に自らを増大させたいのに、図らずも共存してしまうこと(不愉快な共存)。競争的共存は、効果的あるいは有効競争がおこなわれている状態と考えられます。競争的共存の概念については四方哲也「進化実験による複雑系へのアプローチ ― 相互作用による競争的共存」『科学』Vol.68、No.5、1998年、384-389ページ、及び 四方哲也『眠れる遺伝子進化論』講談社、1997年を参照してください。競争的共存の概念に対しては批判的な意見もあり、生物学の分野でも論争が起きているようです。なお、経済学の分野で競争的共存の概念はこれまでほとんど用いられていません。
*40 とくに、現在の量産四輪車メーカーは技術的にはいつでも二輪車産業へ参入できる状態にあると思われます。
*41 各年の日本国内における総生産台数の内、集中度が1%を超える企業のみです。表−7、表−8も同じです。
*42 “大型車のカワサキ”とのイメージも、広く消費者に受け入れられています。
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