二輪車産業発展の要因

これまで、二輪車産業における歴史を概観し、メーカーや業界団体の動き、及び関連する産業政策の流れを見てきました。また、産業構造の変遷を追い、競争の過程も示しました。ここでは、以上のことを踏まえて、二輪車産業の発展に影響を与えたと思われる要因、すなわち需要の拡大、企業努力の結果である技術の向上と製品差別化*1、及び産業政策の影響について考えてみたいと思います。

 

1. 需要の拡大

 二輪車産業が、戦後ほとんどゼロの状態から世界一になるまでに成長した要因の一つは、大きな需要が存在したからです。需要の伸びを示すものとして、ここでは生産台数を用います*2

 国内における二輪車生産台数の推移、及び輸出台数の推移を図−8に示します。

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戦後の日本の二輪車産業は、一部を除いて、小型二輪車の生産から始まり、徐々に中型・大型二輪車の生産を始めていきました。そして1950年の朝鮮戦争の特需景気をきっかけとし、二輪車産業は急速な発展を始めます。これは潜在的な需要が大きかったのに加えて、各社の技術が着実に向上したからです。品質も上がり、生産設備も大量生産に対応できるようになりました。高度成長期に入っても生産の拡大は続き、1960年にはフランスを抜いて生産台数世界一となります。輸出に関しては1960年代に入ってから急速な伸びをみせました。これは、日本のメーカーが海外のレースで活躍を始めた時期と一致しています。その後も生産台数の拡大は続きました。

1960年代から1980年代前半までの生産台数拡大は続きましたが、この理由は大きく二つに分けることができます。一つは輸出が拡大したためです。もう一つは、1980年代前半、日本の二輪車産業においては出血競争若しくは略奪的競争といっても良いような状況(いわゆる「HY戦争」)が起きたことです*3。図−9は国内市場向け二輪車生産の推移を示したものであり、HY戦争期に生産台数が急速に伸びたこと及びその後の急速な落ち込みが見て取れます*4

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図−9からはまた、1960年代前半でほぼ国内市場が飽和していること、及びHY戦争期を除いて考えるならば、国内市場の大きさは100万台から150万台の間であったことも推測されます。(グラフには記されていない1998年以降、国内市場は更に縮小し、2001年の国内販売台数は約75万台にまで減少しています。)

1980年代半ば以降の生産台数の落ち込みは、生産台数拡大の要因が逆に作用したことによると思われます。すなわち、海外工場での生産(現地生産)が伸びたことによって輸出のための生産が減少したこと、及びHY戦争が終わったことによって、生産が縮小したためです。(ここ数年の急速な生産台数及び国内販売台数の減少については他の要因が作用しているように思えます。この件については、近いうちに分析しようと思っています。)また、その結果、国別の生産台数では、1993年に中国に、1996年にはインドに抜かれ世界一ではなくなりました*5。1990年以降の国別二輪車生産台数の推移(生産台数上位7カ国)を表したのが図−10です。

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 人口の多さと今後の経済成長を考えあわせると、中国やインドの生産は引き続き伸びることが予想されます。しかし、中国やインドの二輪車メーカーの多くが日本の二輪車メーカーと公式・非公式*6に何らかの結びつきがあり、技術力や販売力を含めて考えるならば、日本の二輪車メーカーが現在でも世界一であることは疑う余地がありません*7

次に日本における二輪車の排気量別の生産については、前も述べたように、当初、小型二輪車から生産が始まりましたが、1960年代後半から大型二輪車の生産も拡大していきました。図−11は排気量別の生産台数を示したものです。小型二輪車生産の急速な伸びが1960年前後であり、中・大型二輪車生産の急速な伸びが1970年代前半であったことを示してます。

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以上、述べてきた需要の拡大についてまとめると以下のようになります。

非常に大きかった潜在需要があったために、終戦直後は、とにかく造れば売れました*8。これが新規参入者を招き競争を激化させることになったのです。競争はメーカーを技術開発競争に走らせる*9ことになり、技術が向上していきました。この技術の向上によって、より良い製品が生まれ、新しいタイプの二輪車の開発にも成功します。そして、新しいタイプの二輪車がさらに需要の拡大を後押しするという好循環が起きたと言えます。これには幼稚産業期に外国製二輪車との競争にさらされなかった(ほとんど輸入がおこなわれなかった*10)ことも影響を与えていると思われます。

 

2.企業の努力

二輪車産業の発展に影響を与えた要因として、潜在需要の大きさとともに重要なのが二輪車生産メーカーの努力です。その努力の結果は技術の向上として現れ、関連して製品の差別化を押し進めました。  

<技術の向上>

  二輪車産業について注目されるのは、技術の向上にレースが大きな役割を果たしたことです。そして、それを支えた技術者の多くは戦前の軍事産業から移ってきた人々でした。

(1) レース
  二輪車産業の発展においてレースが重要な役割を果たしたことは明らかです。前に述べたように、潜在需要が大きく、新規参入者が非常に多かった1950年代半ばの二輪車産業においては激しい競争がおこなわれていました。ライバルが多い中で販売台数を伸ばすためにはレースで知名度を上げることが一番だったのです。レースにより培われた技術は製品へも生かされました*11
  なお、レースを通じて先に世界レベルに達した日本の二輪車生産技術が後の自動車産業の発展に役立ったとの見方もあります*12

(2) 技術者の移動
  戦時中、航空機産業に従事していた技術者の多くは、戦後、自動車産業に移動してきました。軍需工場の閉鎖によって生活の糧を失った技術者は、以前の技術を生かせる職場として自動車産業を選んだのです。エンジン関係の基本的な技術は戦前に既に出揃っていました*13。そして日本の航空機産業における技術は、いわゆる「零戦」に代表されるように、世界と肩を並べるものであり、そこで技術開発をおこなっていた技術者*14が戦後の二輪車産業と自動車産業の成長に大きな影響を与えたのです。  

<製品差別化>

  製品差別化は産業構造を決定する上で重要な要素の一つです*15。戦後の日本の二輪車産業においても製品の種類が増加、すなわち製品差別化が生じました。

戦時中の二輪車生産メーカーは一社のみであったため、戦後の新規参入者の増加により、製品の種類が増加したのは当然と言えます。しかし、製品差別化の過程にも年代を追っていくといくつかの特徴が見いだせます。図−12は新型車として発表された二輪車製品の数を示しています。赤で示されたグラフは、現存四社のみの新型二輪車発表を数えたものです。寡占化の進行とともにグラフは徐々に近づき、1970年前後からはほぼ重なっていることが分かります。

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新型二輪車数は1950年代半ばにかけて大きく増加し、一旦減少した後、1980年代前半にかけて再び増加していきました。その後は1980年代半ばに少し減少したまま、現在に至っています。前述の分析を図−12と併せて考えると、以下の三点が浮かび上がります。  

@ 潜在需要が大きく、新規参入者が多い時期に製品差別化は進む。(復興期)

A 激しい競争が起きると新型車の発表も多くなる。(HY戦争期)

B 現存四メーカーの新型車発表数の伸びは1980年代半ばまでは生産台数の伸びと高い相関を示す*16。  

以上のことから、製品差別化が生産台数を伸ばした要因の一つであると言えるでしょう。

参考までに、1999年における日本メーカー及び外国メーカーの製品構成を表−9に示します。小型二輪車から大型二輪車までを生産しているのは海外メーカーでは数社しかなく*17、日本メーカーの製品差別化が進んでいることを示しています。  

表−9 1999年における主要メーカー別製品構成

メーカー名 〜50cc 51〜125cc 126〜250cc 251〜400cc 401cc〜
ホンダ 35 12 10 7 13 77
スズキ 15 14 15 13 11 68
ヤマハ 13 10 11 5 10 49
カワサキ 1 7 17 9 15 49
KTM 3 6 3 7 11 30
APRILIA 12 7 5 5 29
HARLEY-DAVIDSON 24 24
GASGAS 2 2 6 6 16
HUSABERG 4 11 15
BMW 8 13
PIAGGIO 3 5 4 12
ATK 2 1 2 7 12
TRIUMPH 11 11
DUCATI 10 10

資料:各メーカーWebサイトより作成*18

 

3. 産業政策*19の影響

 通産省のおこなった戦後の日本の産業政策全般については、その評価が分かれている*20。ここでは、産業政策の概念を述べ、その変遷を眺めた後、復興期、高度成長期及びオイルショック以降に分けて、産業政策が二輪車産業に与えた影響を考えたいと思います。 

<産業政策の概念>

 日本の高度成長を支え、推進したともいわれる産業政策は広範囲に用いられる言葉であり、時代とともにその内容も変化しています。また、産業政策の中でも産業組織政策*21は日本の基幹産業といわれる自動車・鉄鋼・繊維等を対象として行われてきました。産業組織をどのようなものにするかは社会全体にも大きな影響を与える*22ため、その成果に関しては議論の対象になっています。

 産業政策について考える前に“産業”とはどの範囲を指すのかを定義しなければなりません。産業とは、

@ 生活をいとなむための仕事。さまざまの職業。なりわい。生業。

A とくに、近代における生産を目的とする事業。また、商業、運輸業、金融業など生産に直接たずさわらない広範な事業を含めてもいう。一般的には自然物に人力を加えることにより、創造、増大、使用価値の変更などを行う経済的形態。

B Aのうち、とくに工業。

とされています*23。産業政策で用いられる“産業”の概念はBに近いものです。第一次産業である農業や第三次産業であるサービス業は対象とされていません*24。すなわち、工業(主として製造業*25)を対象として行われる政策が産業政策なのです。

産業政策の内容は大きく次のように大きく三つに分けられます*26。 

@ 個々の産業組織に関する「産業組織政策」

・各分野ごとの内部組織に関連する(産業再編成・集約化・操短・生産及び投資の調整等の)政策。

・横断的な産業組織政策としての中小企業政策。

A 産業の資源配分に関する「産業構造政策」

・産業一般のインフラストラクチャ(工業用地・産業のための道路港湾整備・工業用水・電力供給等)に関わる政策。

・産業間の資源配分にかかわる政策。

B 政治的要請に基づいて取られる政策

・貿易摩擦などに対処するための、輸出自主規制や多国間協定などの政策。 

 なお、産業政策に関して、貝塚啓明氏が皮肉を込めて「産業政策とは通産省がおこなう政策である」と定義したことは良く知られています*27

 それでは何故、産業政策が必要となるのでしょうか。産業間の資源配分という点からみれば、それは「市場の失敗」に対処するためであるとされます*28。戦後、混乱した経済を復興し、自立を行うため、及び資源の少ない日本がそれらを効率的に用いるために、産業政策が必要と考えられたのです。この背景には、明治期からの殖産興業という政府主導の政策が採られていたことと関係が深いことは言うまでもありません。終戦により、主要な政治的指導者は追放されましたが、行政組織は形を変えながらも生き残り、実務担当レベルの官僚は戦犯として追及されることはありませんでした。結果として、かれらは戦後の高度経済成長に大きく関わることになります。

 なお、アメリカでは反トラスト法との関係で政府の産業に対する介入がおこなわれることが比較的に少なかったのですが、日本の成功例を見習い、近年その方針が変化してきています*29

 

<産業政策の変遷>

 終戦直後の日本は貧しく、“豊かになりたい”というのが国民の願いでした。戦争に敗れ、資源の少ない日本が豊かになるためには、原材料を輸入し、それを加工し、輸出するという加工貿易を行うしか方法はないと考えられました。すなわち、工業立国を目指すことが必要だったのです*30。限られた資源の中で工業国として発展するために、どのような産業を育成すればよいのか、を考えた結果として採られた政策が基幹産業復興のための傾斜生産方式です。当時の商工省を中心として考えられたこの政策は、まず石炭産業や鉄鋼業に資金や資材を重点的に配分し、石炭や鋼材を増産させます。これを他の産業に順次供給しようと考えたものです。傾斜生産方式は結果として鉱工業生産を上げることに貢献したと言われています。

 1950年代に入ると、国内産業の国際競争力を付けるために、各企業の合理化を促進するような政策が採られました。前にも述べたように、1949年9月に政府は「産業合理化に関する件」を閣議決定し、12月には産業合理化審議会が設置されます。1952年3月には企業合理化促進法が公布・施行され、1963年から1964年にかけては特振法案が内閣により国会に提出されました。これらの産業合理化政策とも呼ばれる政策は、政府が意図的に一産業内の企業数を減らそうとする、すなわち産業組織政策としての側面と、製造業を重点的に育成し、工業立国を目指そうとする産業構造政策の側面の両方を持っています。

 オイルショック以降は特定の産業育成を目指した産業構造政策や、ある産業内の企業数を調整することを目的とした、直接的な産業組織政策がおこなわれているようには見受けられません。直接的な介入政策よりも、誘導的な政策がとられるようになったのです*31。不況業種への調整・援助や研究開発への補助等が誘導的な政策にあたります。また、日本製品の国際競争力の向上による輸出は外国との貿易摩擦を政治問題化し、その対応に政府は追われることにもなりました。

 

<二輪車産業に産業政策が与えた影響>

(1) 復興期

 占領下の日本において、GHQは二輪車を重要産業と見なさずに生産資材の配給割当は少ないものでした。しかし、小自工等の働きかけもあって、配給の制限は緩和されました。資金面ではアメリカの対日援助見返資金からの融資がおこなわれ、融資先の選定等の実務に関しては日本政府も深く関与していました。この融資は、二輪車メーカーに対してもおこなわれました。当時の二輪車メーカーの企業規模を考えると、私企業部門の中小企業を対象とした融資であったことが推測されます。しかし、後のドッジ・ラインによる緊縮財政・均衡予算は不況を招く結果にもなり、当時は未だ幼稚産業であった二輪車産業の各メーカーを苦しませることにもなりました。

 通産省も二輪車産業については自動車(乗用車・トラック)産業のように国の重要産業と位置づけていた訳ではありません。しかし、潜在需要の大きさから成長を始めようとしていた二輪車産業に対しては各種補助金が交付されており、技術的に未熟で、経営基盤も安定していなかった二輪車産業にとって、経営危機を打開*32し、飛躍するためのきっかけともなったのです。また、二輪車・三輪車の業界団体である小自工が、通産省や運輸省などの関係官庁へも積極的に働きかけをおこなうとともに、密接に情報交換していたことが、当時の二輪車産業の発展に少なからず寄与したことも間違いありません。さらに通産省主導の分解展示会等も、世界的水準に達していなかった日本の二輪車メーカーの技術を向上させるのに役立ったと思われます。また、自動車が対象となった国民車構想でしたが、二輪車を生産していたメーカーの行動ににも少なからず影響を与えています*33

(2) 高度成長期

 高度成長の1960年代前半には、既に日本の二輪車産業は世界水準に達していました*34。高度成長期も復興期と同様に二輪車産業を対象とした産業政策はおこなわれてはいません。しかし、直接二輪車産業を対象とはしていないものの、1956年の機振法では自動車部品が対象業種に選ばれ、育成されることになります。エンジン構成部品に関して、二輪車と四輪車は共通する部分が多く、部品メーカーも二輪車用と四輪車用の両方を生産している場合が多いようです。結果的に企業合理化促進法及び機振法は、他の産業と同様に、間接的にではあるが二輪車産業にも部品品質や生産性向上等の良い影響を与えたと思われます。このことは日本の二輪車産業、とくに小型二輪車の生産で飛躍的な発展を遂げる要因の一つとなったと言えるでしょう。

 日本の二輪車メーカーが海外レースで活躍する少し前の1950年代後半、工業製品全般を海外にPRするためにおこなわれた各種の産業見本市は日本製の二輪車を海外に紹介し、レース参戦ほどではないものの、一定の役割を果たしたと思われます*35

 1963年から1964年にかけて計三度国会に提出された特振法は、二輪車業界にも議論を巻き起こしました。特振法案に対して、小自工は運用面に問題があるとして配慮を要望しました(事実上の反対をした)が、同時に、法案が成立したときのことも考慮し、小自工も事業者団体に指定してほしいとの要望書も提出しています。なお、特振法案が公表されたのをきっかけにして、ホンダは四輪車への進出を急ぎ*36、1963年には軽トラックの発売を開始しています。

 海外との関係については、1967年4月に閣議決定「対内直接投資の自由化について」の中で、二輪車は自由化業種*37に指定されましたが、実際に影響を受けることはありませんでした。1960年代後半以降、海外からの圧力による貿易・資本の自由化を背景として、産業政策の方向性が保護・育成から調整へと徐々に変化した時にも二輪車産業が受けた影響はほとんどなかったと言って良いでしょう。

 

(3) オイルショック以降

 産業政策の変化は第一次オイルショック以降も続き、調整政策の側面が強くなっていきました。自動車の対アメリカ輸出に関して、1970年代後半から始まった貿易摩擦においては、政治問題化したこともあり、通産省の調整が活発におこなわれました。二輪車においても、対アメリカ輸出の拡大により摩擦が生じましたが、政治問題化しなかったため、通産省による積極的な調整がおこなわれた様子はありません*38。つまりオイルショック以降も、産業政策は二輪車産業にほとんど影響を与えることはなかったと言えます*39

 

【二輪車産業における参入障壁の変遷】

二輪車産業における参入障壁を数値で記述するのは非常に困難です。しかし、歴史及び産業構造の変遷や分析から、以下のことが言えると思われます。  

@ 1945年から1955年頃までは参入障壁が比較的低い。

 これは国内の潜在需要が大きい上に、大規模メーカーがほとんど存在しなかったためです。また、二輪車に要求される品質や性能が現在と比べて低かったこと、及び各部品を専門業者から購入するだけで比較的簡単に二輪車メーカーになれたこと等々の理由があったからだと思われます。

A 1955年頃から徐々に参入障壁が高くなっていった。

 参入障壁が高くなっていった要因は、ほぼ@の反対との理由と考えて良いでしょう。すなわち、国内の潜在需要が徐々に少なくなり、同時に大規模メーカーが育ってきたために、新規参入が困難になったのです。さらに、要求される品質や性能が上がってきたことも異業種からの参入を妨げる要因となりました。

B 現在は参入障壁が高い。

 日本の四メーカーは生産規模が大きく、販売網も整備されており、さらに知名度が国内外を問わず非常に高いため、国内においての新規参入は困難だと思われます。しかし、前述のように、自動車メーカーの立場から見れば参入障壁がそれほど高いとは言えません。ホンダ、スズキは二輪車生産で経営基盤を安定させた後に四輪車生産へと進出しました*40が、今日、その逆の現象が起きても何ら不思議ではありません。

 

【外国政府による規制】

 外国政府による日本製二輪車の輸入規制は、これまでに何度かおこなわれています。前に述べたアメリカ政府による輸入規制以外の規制の代表例を以下に示します。  

@ 直接的な輸入規制(台湾による輸入禁止措置):

 1961年1月、台湾政府は日本製二輪車(完成品)の輸入禁止措置を採りました。輸入禁止の理由は、表向きは日本製二輪車に粗悪品が多いことや安値競争がおこなわれたことだとされました*41

A 間接的な輸入規制(イギリスによる補修部品の輸入制限):

 1960年前後から、イギリスは日本製二輪車の補修部品輸入に関し、完成車輸入金額の5%以内に制限をおこなっていました。補修部品が制限されることはアフターサービスが充分におこなえなくなる可能性を示しており、完成車の販売にも影響を与えます。このため、小自工は通産省に輸入制限撤廃を求める陳情をおこなっています*42

B 民間企業による間接的な輸入規制(シンガポールの金融機関による融資規制):

 シンガポール政府の直接的な規制ではありませんが、1961年6月からイギリス系の金融機関が日本製二輪車を扱う代理店に対し厳しい融資規制を始めました。融資規制の理由は、それまでシンガポールで主流だったイギリス製二輪車の販売が落ち込み始めたからだとされます*43。マラヤ(現マレーシア)でも、同時期にシンガポールと同様の措置が採られました。

 上記以外にも、旧西ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ベルギー、タイ、アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、ウルグアイ、コロンビア、チリ等で、輸入制限・禁止や高関税の措置が採られました。  


*1 製品差別化は参入障壁の一つとなります。

*2 需要と生産は必ずしも同じとは言えません(在庫等があるため)が、ここでは便宜上、生産台数を指標として用いています。

*3 略奪的競争や出血競争は、一般的には支配的企業が弱小ライバルを排除する手段としておこなわれることが多く、結果として寡占状況を生み出すことも多くなっています。しかし、「HY戦争」は寡占状況下において、業界第二位のメーカーが第一位のメーカーに販売競争を挑んだことが特徴として挙げられます。通産省は「ホンダとヤマハの場合はあまりにも過当競争で、その弊害が多き過ぎます(宇治芳雄「ダブル・ノックアウト ― ホンダ・ヤマハ戦争」『中央公論』 98(14)、1983年、248ページ。)」との非公式の見解を示してはいますが、競争が比較的短期間で終わったこともあり、行政指導等をおこなった形跡はありません。

*4 図−9は販売台数の数字ではありません。なお、市場シェアについては、一般的に自動車では新車登録台数(≒販売台数)で表されますが、二輪車については小型二輪車の登録が市町村でおこなわれるために正確な登録台数を把握できません。そこで、二輪車の市場シェアを表す場合には国内末端販売店向けの出荷台数で示されます。しかし、このWebサイトでは生産面からの考察を主眼としているために販売台数ではなく、国内向けの生産台数を用いています。なお、1990年代に入ると国内向けの生産台数は徐々に減少している。これには、少子化やライフスタイルの変化が影響を与えたと見る向きもあります。

*5 『自動車年鑑1998年版』日刊自動車新聞社、640ページ。

*6 ここでの非公式とは、技術やデザインの盗用を指します。中国におけるコピー二輪車問題に関しては、いずれ述べたいと思います。

*7 中国やインドの二輪車メーカーが自主開発力をつけて日本の二輪車メーカーに対抗できるまでにはある程度の時間がかかると思われます。

*8 “粗製濫造”も一部ではおこなわれたようです。

*9 1970年代まで、二輪車産業における競争は品質や技術開発のような非価格競争でした、前述のように1980年代前半には激しい価格競争がおこなわれました。非価格競争が産業を成長させるプラスの要因となり、非価格競争は産業の成長にとってマイナス要因となっていることは興味深い事柄です。

*10 高い輸入関税(1965年まで30%の高い関税がかけられていた)、為替レートの問題、販売ルートの無さ等によります。そのため、1970年頃までは輸入数量が年間数百台にとどまっていました。近年になって輸入は増加し、1998年で約53,000台を数えますが、その中のかなりの部分は日本製二輪車の逆輸入だと思われます。輸入台数の推移を以下の図−N1に示します。

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*11 1980年代前半にはこの傾向が非常に強く出ており、ほぼ毎年のようにフルモデルチェンジする車種までありました。(いわゆるレーサーレプリカと呼ばれる種類の二輪車。例:ホンダの「NSR250R」)なお、この時期は若者を中心としてブームと言って良い程に二輪車への関心が高まった時期であり、それに合わせてメーカーの開発競争も激しくなりました。

*12 川原晃『競争力の本質 −日米自動車産業の50年−』ダイヤモンド社、1995年、13ページ。

*13 裏を返せば、戦後、エンジンに関して画期的な発明はなされていないとも言えます。

*14 中島飛行機からくろがね自動車を経てホンダへ移り、第一期F1参戦時に監督を務めた中村良夫、立川飛行機からトヨタ自動車に移り「クラウン」の開発に携わった長谷川龍雄、中島飛行機から富士精密を経てプリンス自動車(現日産自動車)で「スカイライン」の開発に携わった中川良一などが知られています。前間孝則『マン・マシンの昭和伝説 (上)(下) 航空機から自動車へ』講談社文庫、1996年。(原著:1993年。)より。

*15 “市場”の構造を決定する主要な要素には以下のようなものがあります。
     ・売手集中
     ・製品差別化
     ・新規参入障壁
     ・買手集中
     ・高い埋没費用と退出障壁
     ・市場需要の成長率
     ・輸入競争
     (R.E.Caves,op.cit.,p.17.による分類)

*16 1946年から1985年までの相関係数は0.9を超え、高い相関があることを示しています。以下に示す図−N2は図−8と図−12を重ね合わせたものです。1980年代半ば以降に相関が低くなるのは、海外生産の拡大とHY戦争をきっかけとする各メーカーの経営戦略の変更があったためだと思われます。

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*17 KTM社、GASGAS社、ATK社はオフロード車を専門に生産しており、実質的に外国メーカーでいわゆる“フルライン”生産をしているのはイタリアのAPRILIA社だけとなっています。

*18 各社Webサイトより。

*19 Industrial Policy. 日本で最初にこの言葉が用いられたとされています。産業政策の概念規定の詳細については鶴田俊正『戦後日本の産業政策』日本経済新聞社、1982年、281-283ページ、及び小宮隆太郎他編『日本の産業政策』東京大学出版会、1984年、2-4ページを参照して下さい。なお、産業政策と自動車産業との関係については、武藤博道「自動車産業」(前掲『日本の産業政策』所収、第11章)、及び伊藤元重「温室の中での競争 日本の産業政策と日本の自動車産業」(伊丹敬之など編『リーディングス 日本の企業システム4 企業と市場』有斐閣、1993年所収)等で詳しく述べられています。

*20 産業政策の成果については、その概念規定と同じく、評価が分かれています。評価の対象を国全体とするのか、一産業でおこなうのか、また、評価する時点での経済状況も評価に影響を与えます。産業政策自体も、それぞれの時代の経済・政治的環境により変化してきており、これからも変化するでしょう。産業政策の評価そのものはここでの目的ではないため詳細には述べませんが、少なくとも現時点で世界第二位の経済大国になったこと、すなわち世界でも有数の豊かな国になったこと等を考え合わせると、全くの否定的な評価を下す理由はありません。否定されてしかるべき面があったにせよ、全体としては肯定的な評価を下しても良いのではないかと思います。

*21 一産業を市場構造のみでとらえるのではなく、競争の状態やそれらに影響を及ぼす要因までを範囲に含めたものです。産業組織政策は産業政策の主要な部分を構成しています。傾斜生産方式等の産業構造政策が産業横断的な政策なのに対し、産業の合理化や効率化をはかろうとする産業組織政策は産業縦断的な政策だと言えます。

*22 Richard E.Caves,op.cit.,p.14.

*23 『国語大辞典(新装版)』小学館、1988年より。

*24 小宮隆太郎は「サービス産業の中でも狭義の「産業」つまり製造業の発展と密接な関係のある分野、たとえばコンピューターのソフトウェア、電気通信のある種側面、ある種の製品・物資の流通等は産業政策の対象に含めて考えるのが適当であるかもしれない」と述べていいます。小宮隆太郎・奥野正寛・鈴村興太郎編『日本の産業政策』東京大学出版会、1984年、3ページ。

*25 一般的には第二次産業に分類される鉱業、建設、ガス、電気事業などは産業政策の対象とはされていません。

*26 前掲『日本の産業政策』3−4ページ、及び伊藤元重・清野一治・奥野正寛・鈴村興太郎『産業政策の経済分析』東京大学出版会、1988年、3−4ページより。

*27 貝塚啓明『経済政策の課題』東京大学出版会、1973年、167ページ。

*28 前掲『日本の産業政策』5ページ。

*29 アメリカでは1984年に「国家共同研究法」(1993年には「国家共同研究・生産法」に改正されています)が制定され、互いに競争する企業が共同研究をする道が開けました。この法律の制定には、日本の半導体産業で通産省主導の下におこなわれた超LSI技術研究組合がかなりの成果を上げ、アメリカの半導体産業を追い上げたことが影響していると言われています。

*30 工業立国を目指した政策は、ある特定産業の育成を目的としたものであり、産業構造政策とも呼べるものです。

*31 産業政策の転換については、前掲『日本の産業政策』所収の「第1部 歴史的概観 T」においてまとめられています。

*32 『社史 −創立七周年記念特集−』本田技研工業株式会社、1955年、21-22ページ参照。

*33 この当時、スズキは四輪車進出の時期を見極めようとしており、国民車構想とほぼ重なる1955年10月に初めての四輪車となる軽自動車を発売しています。

*34 1959年に通産省は二輪車関係五社、スクーター関係二社についてのヒアリング調査をおこない、外国製二輪車に対して充分に競争力があることを確認しています。小自工の「双輪会」(二輪車メーカーの経営者による親睦団体)も、「貿易自由化しても良い」との考えを打ち出しました。前掲『小型情報』53号。

*35 意匠奨励審議会の答申を受け、産業デザインの保護と奨励を目指し、1970年に設立された「ジャパン・デザイン・ハウス」も二輪車のデザインに関して多少の影響を及ぼしたと思われます。

*36 藤沢武夫『経営に終わりはない』文春文庫、1998年、196-198ページ(原著:ネスコ、1986年)より。

*37 第二類自由化業種。

*38 外国政府による日本製二輪車の輸入規制は1960年代前半から既におこなわれていました。

*39 競争政策の観点から見ると、1977年の独占禁止法改正法施行により「独占的状態の定義規定のうち事業分野に関する考え方について」及び「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律第十八条の二(価格の同調的引上げ)の規定に関する運用基準」と題されたガイドラインが定められました。二輪車は1977年から現在まで、両方の監視対象事業分野に入っています。1978年1月から5月にかけて二輪車でおこなわれた標準小売価格の引上げがこのガイドラインに則り、独占禁止法第十八条の二に該当するものとされ、価格の引上げ理由の報告が公正取引委員会より求められました。各社の値上げ理由は似かよっており、原材料費、加工費、労務費等の上昇によるコスト増、及び卸・小売業者の販売経費の増大に対処して、流通マージンを増加させる必要性があったため、とされていました。また、モデルチェンジによる経費の増加を理由にあげるメーカーもありました。

*40  ヤマハも自動車用エンジンを生産しており、エンジン供給者としてF1に参戦していたこともありました。1965年に第12回東京モーターショーに出品され、1967年から発売されたトヨタのスポーツカー、「TOYOTA 2000GT」に搭載されたDOHCエンジンがヤマハ製という話は有名です。現在、ヤマハとトヨタ自動車の関係はより深いものになっています。

*41 真の理由は、通貨政策にからみドル流出を防ぐためにおこなわれた措置のようです。『日本経済新聞』1961年1月25日。

*42 その後、完成車輸入金額の10%以内に制限を緩和することで決着しました。

*43 『日本経済新聞』1961年10月15日。

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