おわりに

 日本の二輪車産業は、終戦後数年で急速に成長を始め、わずか15年ほどで世界一の生産台数を誇るまでになりました。これほど二輪車産業が急速に成長した理由は大きく三つに分けられます。第一の理由は、戦後復興期の需要が大きく、競争がおこなわれたためです。当時、まだ豊かでなかった人々は安価な輸送手段を求めていました。食べることで精一杯だった人々が自動車を買えるはずもなく、なにより自動車生産自体の立ち上がりが遅かったのです。そのような状況の中で、二輪車の需要が急速に拡大していきました。第二の理由としては、企業努力により大量生産技術の確立がいち早くなされ、製品差別化が図られたことが挙げられます。激しい競争がおこなわれていた復興期には、相対的に価格競争よりも品質や研究開発等が重要視され、非価格競争がおこなわれていました*1。終戦直後は動いてさえいれば飛ぶように売れた二輪車も、少しずつ時が経つにつれて、品質やデザインが問われるようになります。そして、性能や信頼性の向上、すなわち技術力の向上には、各種国内外のレースが大きな影響を与えました。「レースで勝つこと」=「良い性能」と見なされたのです。それと共に、戦時中の航空機産業から移ってきた技術者も技術力の向上に大きな役割を果たしました。航空機生産を禁じられ、行き場をなくした技術者達が生活の糧を求めて二輪車・四輪車メーカーへと移ってきたのです。彼らは、戦前に高度な教育を受け、航空機に関して世界水準の研究開発をおこなっていた技術者達でした。二輪車産業成長の第三の理由として挙げられるのが産業政策の影響です。戦後を通じ、通産省が産業政策の一環として二輪車産業を意図的に育成しようとした形跡はみられません*2。しかし、復興期から高度成長期前半にかけて、政府の産業合理化政策や機械工業振興政策の影響は少なからず受けています。それらは直接的なものではなく、機械加工設備の近代化及びそれに伴う加工精度や品質の向上等の間接的なものであり、日本の製造業全体が受けた恩恵です。つまり、産業政策は復興期に二輪車産業の成長にある程度の役割を果たしたといえるでしょう。しかし、かなり早い段階で関与の度合いは減少してゆき、1960年代前半以降、ほとんど影響を受けることはなかったと思われます。

 四輪車産業では政府の保護・育成政策を例えた「温室の中での競争」*3との言葉がしばしば用いられます。二輪車産業で同様に解釈すれば、復興期、“温室の中”で非常に激しい競争がおこなわれたものの、そこで生き残ることができたメーカーは復興期後半には“温室の外”へと飛び出していったと見ることができます。また、二輪車産業を対象とした保護・育成政策がおこなわれなかった側面をより重要視するならば、“温室の中”ではなく、「日だまりでの競争」であったと言い換えることもできるでしょう。「日だまりでの競争」とは、四輪車産業のような手厚い保護・育成政策(=温室)は受けられなかったものの、大きな潜在需要と技術者の流入*4という好条件(=日だまり)の下で激しい競争がおこなわれ、勝ち残ったものが日だまりの外(海外)へと進出していったということを意味しています*5

 日本の二輪車産業のこれからの課題は排出ガス規制対策、燃費の向上、新規市場開拓、安全教育の推進等が挙げられるでしょう。とくに、近年、排出ガス規制と燃費向上について、四輪車用エンジンでの技術開発が急速に進み、二輪車が本来持っている優位性が薄れてきています。技術的には世界一の座にある日本の二輪車メーカーですが、さらなる努力が求められます*6

以上、二輪車産業の発展についての簡単な分析・考察をおこなってきましたが、二輪車産業と産業政策以外の政策*7との関連、二輪車産業が四輪車産業と密接な関係があること、及び流通やマーケティング面からの考察等については本Webサイトでは詳細に述べられていません。これらの問題はは広範囲にわたり複雑な要素が絡んでおり、現時点では本Webサイト作者の能力を越えています。上記問題を、戦前の二輪車産業についての調査とともに、今後の課題にしたいと思っています。


*1 安価な製品であっても、故障が多ければ結果的に費用は割高となります。

*2 通産省と二輪車メーカーとの個別の関係でいえば、二輪車の大量生産を軌道に乗せ、戦後日本の二輪車産業の先行企業ともいえるホンダは通産省と対立することが多かったようです。前掲『経営に終わりはない』178-179ページ、及び西田通弘『本田宗一郎と藤沢武夫に学んだこと 「主役」と「補佐役」の研究』PHP文庫、1996年、26-27ページ(単行本:PHP研究所、1993年)等。

*3 前掲「温室の中での競争 日本の産業政策と日本の自動車産業」。

*4 イギリスとアメリカは、戦前の主要な二輪車生産国でした。しかし、現在では両国とも実質的に二輪車を量産している企業は一社のみです。とくにイギリスは1970年代半ばにほとんど壊滅とも言える状態に陥っていました。これはイギリスとアメリカは戦勝国のため、軍事産業から二輪車産業への技術者流入が起きなかったと見ることもできます。対照的に、敗戦国である日本、ドイツ及びイタリアの二輪車産業は戦後、活況を呈することになりました。

*5 保護・育成政策は産業政策の基本的部分を構成するものの一つであり、内容や成果をどのくらい重要視するかは難しい問題です。

*6 さらなる努力とは、より高度な研究開発をおこなう必要性があることを意味しています。研究開発を支える研究者や技術者をどのように育て、要望に応えていくかは大切です。科学技術政策、産業政策、教育政策は、それぞれに関連しており、一国のありかた、経済のあり方に大きな影響を与え、将来を大きく左右するものだと言えます。これらの政策をいかに密接に関連づけてゆくかが非常に重要となるでしょう。

*7 交通運輸政策、環境政策及び経済政策等。また競争政策についての考察も今後の課題の一つです。なお、二輪車産業と競争政策の関連で注目すべきは知的財産権です。戦後復興期の日本の二輪車メーカーでは外国製の二輪車を詳細に研究した上で、自社製品に応用した部分が数多くありました。ほとんど全てを模倣して外国企業からクレームをつけられたメーカーもあったくらいです。(小関和夫『国産二輪車物語 −モーターサイクルのパイオニア達−』三樹書房、1995年、35ページ。)1950年代には日本の輸出品のデザイン盗用が問題となり、「輸出品デザイン法」が成立しています。(前掲『通商産業政策史 第6巻 −第U期 自立基盤確立期(2)−』、1990年、318-321ページ。)1950年代に知的財産権に関して現在と同じような見解が一般的であれば、日本の二輪車産業の発展はなかった可能性が高いと思われます。2002年現在、中国において全く同様の知的財産権に関する問題(コピー二輪車問題)がみられます。状況が全く同じという訳ではありませんが、今度は日本の二輪車メーカーが知的財産権を侵害される立場になります。日本のメーカーはどのように対処するのでしょうか。個人的には“競争的共存”状態になることを望んでいます。

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